日本語でのアントニア・ヒメネスのインタビュー

アントニアがどうやってフラメンコギタリストになったか、自分のたどってきた道を話してくれます。2歳の時、カディスのお祭りで見た景品のギターに抱きつき離れなかった彼女、それ以来ギターを弾きたい一心でした。それまで独習でやってきた彼女は、13歳で初めての師匠となるアントニオ・ヴィラアからギターの基礎を学び、だいぶ後になって、エンリケ・ヴァルガスに師事します。彼は、アントニアが音楽家として成長するのを助けてくれました。とても若い頃に出た旅のこと、様々な出会い、不安、決意、そしてその後の飛躍のきっかけとなる日本行きについて、話は進みます。女性ギタリストがどのように認知されているかをそしてギターを弾く人へのアドヴァイスや彼女のプロジェクトなどを語ってくれます。

 

こんにちは、アントニア

こんにちは、フィル。ここに来られて嬉しいわ。

フラメンコフィルのインタヴューを受けてくれてありがとう。 

こちらこそ。

それと今夜のリサイタルのためにパリに来てくれたお礼も言います。

何を職業としているの?

人生で最も大切なのは、ギターを弾くこと。およそ30年間仕事としています。

どうやってギターにたどり着いたの?音楽を学んだの?

家にはなかったのに、いつもギターに憧れていた。なぜだかわからないけれど、本当に小さい頃から、いつもギターが欲しかった。母が話してくれたことだけど、私が小さい頃、私を抱いて街の祭り行ったら、そこで景品のギターを見た私は、そのギターに抱きついて離れなかったんだって。母は仕方なく買う羽目になったの。それは、カディス県のエル・プエルト・デ・サンタ・マリアの4月のフェリアだったの。

じゃあ、それを持って帰って弾いてたの?

それは私が2歳か3歳の頃のこと。それから、いつも母に「ギターが欲しい」って言い続けた。でも、それほど母は気に留めなかった。それで、靴の箱と、ゴムで自分のギターを作ってたの。ギターを弾きたいっていつも思ってた。お気に入りのおもちゃだった。

ご両親は、楽器を演奏していた?

いいえ、何も。

家では、音楽を聞いてたの?

それもないわ。家ではない。なんて言ったらいいのかな、音楽文化がなかったの、両親は、労働者で、働いてばかりで、芸術に重きをおいてなかった。でも、父方の祖父とその兄弟たち、それと私のおじたちは、みんな歌っていた、フラメンコのファンだったの。父だけが違った。だから、家では音楽と生きてなかったわ。

家族のお祝いの時は?

それもなかったわ。でもよそに求めて行った。わたしは家にいない時は、近所に行ってた。音楽が必要だったから、音楽のあるところに行ってた。母は、私がかなりせがんだので、最初は8歳か、9歳の時に、音楽学校にソルフェージュを習いに行かせた。2年いたけど、好きじゃなかった。退屈だった。だってギターを触らずに、本とすごくつまらない音符だけ。でも、ようやくギターを演奏し始めた時、それは、わたしの中の革命だった。だって音楽を楽しめるようになれたから、わたしの初めての音符、初めてのコードを弾き始めたから。もうそこからは、止まらなかった。もっと弾きたくなった、そしてもちろん今でも、もっと弾きたい。学ぶことに終わりはないわ。

どうやって、ギターを習得したの?

13歳か、14歳の頃、ある先生のところに行ったの。それまでは、完全に独習だったから。何にも知らなかったし、自分でコードを作ってたし、弾けるように見えて、全く何も弾けなかったの。だから、その先生のところに習いに行ったの。その先生は、アントニオ・ヴィラアと言います。彼の周りには、30人か、40人くらいの子供たちが座っていた。先生は、私たちの指を置いていっていた、そう小指はここっていう風に、ABCから始めるみたいにね。それがわたしの受けた基礎だったの。彼の元に3、4年いた。わたしにとって、彼はとても重要だった。彼の兄弟がダンサーだったのです。それで、一番進んだ生徒たちをダンスアカデミーに連れていっていた。わたしのリズム感がいいのに目につけてくれていたので、何個かのコードを習得したらすぐに、ダンスの伴奏のために連れていってくれたの。

そして自然に仕事を学び、自然にお金を稼ぐようになった。15歳で、ギター演奏で少しずつお金を稼ぐようになっていった。

それは、週末のこと?

そう、でも週日も。ダンスアカデミーでは、毎日教えているから、レッスンの伴奏のためのギタリストが必要なのよ。覚えてるけど、15歳の時、中学校の授業の後、午後ずっと、あっちこっちのアカデミーに行って、お金をもらってた。だから、もうその歳で、やる気は満々だったの。

それは、フラメンコのギターだよね?

そうフラメンコ。アンダルシアのカディスにいれば、すべてはフラメンコに向かっている、むしろ逆に例えば、わたしがクラッシックギターを習いたがっていたら変だと思う。でも実際、フラメンコは、周りにあふれていて、私たちの町の、土地の音楽でしょ。それで直接フラメンコギターを学んだ、いずれにせよ、それしかしたくなかったの。

それから、どうやって進歩したの?

そこから、困難が始まったのよ、もう幼くはなかったから。独習ギタリストになったの。どうやって一人でキャリアを築いていくか、本や、ディスクで勉強を始めたり他の人と調べ始めたりした。カディスは小さいし、出口はそう多くはなかったから、なかなか難しかった。仕事の見通しがないまま、自分の内側を見ていた。わたしはとっても自由で若い精神を持っていた。それで港から出て、17歳で旅立ちました。結構な年月、旅をしました。ノルウエー、オランダ、イギリスその他にも色々なところに住んだの。いろんな種類のミュージシャン達に出会い、彼らから最大限に学ぼうとした。そして自分探しもした。外国を旅したのは、人生の流れで..計画や理性よりも、多くは感情や本能に任せて、動いたから。

情熱により従って?

そうその通り。ノルウエーに友達がいたので、とても若くにギター持って行ったのです。

もう、ミュージシャンになろうと決めていたの?

想像の中ではね、自分の内側では、すでにそうだった。どうやって築けばいいかわからなかったけど、それはわたしのプロジェクトだった。ここで、自分の内側で、この道が自分の進むべき道だとわかっていた。ただ自分の本能にしたがって、旅をした。マドリッドに着くまで旅をした。世の中に、つまりフラメンコのプロの輪に入るかどうか自分で決めなければいけない歳になっていた。女性のギタリストの同僚にあまり出会わなかったから、フラメンコに対していつも不安があった。この道の壁になるような偏見がいくつかあるから。外国を旅しているときはもっと自由だった、そういう偏見に出会わなかったから。でも職業としてフラメンコに自分を捧げると決めた時、それらの怖さに立ち向かいにマドリッドに行くしかなかった。そこでわたしを助けてくれる素晴らしい人たちに会った。

誰が君の師匠だったの?

わたしの師匠はエンリケ・ヴァルガスでした。プロフェッショナルの道を示し、ここまで導いてくれました。すべての面で助けてくれた。わたしの中にいたミュージシャンを育てるのを手伝ってくれました。たくさんテクニックの指導をしてくれました。長年独学でやってきたために、テクニックの大切さをわかってなかったのね。若い時、二十歳の時は、テクニックがなくてもピカードも、トレモロも、アルペジオでもなんでも弾くのよ。でも数年たって、上達するためにはテクニックが必要となる。ギターには正しい弾き方がある。先生は、本当に助けてくれた。一番お世話になった人、わたしのメンターです。

この道で、他に出会った人は ? 他にも助けてくれた師匠はいる?

ええ、たくさんのとっても重要な人がわたしを信頼して、支えてくれた。そしてわたしに自信を与えてくれた。例えば、マルコ・フロレス、オルガ・ペリセ、マニュエル・リニャナ、それから、マドリッドで仕事をした初めての女性の踊り手のロシオ・モリーナがいます。とても情感豊かで、とても繊細なこの仕事を上達させるには、信頼と自信を得ること、これなしではとても難しいわ。

バイル(踊り)やカンテ(歌)の伴奏を習得すること、この独特のテクニックをどうやって仕事として身につけたの?

それは演奏しながら。踊りについてはリズム感が必要、それとツボをわかることね、ツボがわかれば…歌については、ダンスを通じて習得したわ、繋がっているから。

君は、歌ったり、踊ったりするの?

いいえ、歌わないし、踊らない。もちろん、自分が伴奏するから、惹きつけられるし夢中になる。でも、本当に歌えないし、踊れないの。一歩も。

フラメンコは1つの生き方だと思う?

いいえ、フラメンコが1つの生き方だとは言わない。わたしにとっては、ギターがわたしに1つの生き方を要求する。よく、フラメンコは1つの生き方と聞くけど、わたしはそうは感じない、わからない、どういう服装をするとか、どういう話し方をするかとか、フラメンコが決めるとは思わない。わたしにとっていえるのは、職業に課せられるもの、つまり何時間もの練習、たくさんの愛、たくさんの探求ね。 

どうやって楽器の練習をするの?コンサートがあるときは?

毎日練習します、テクニックを重点的に。維持と改良のために。それから、聴きます。聴きながらたくさん学びます。作曲しながら直しながら、とてもたくさんのことを学びます。練習時間は、だいたい毎日8時間、他の仕事と同じ。それと土曜と日曜も。

どうやって曲を選ぶの?それとも作曲するの?

ええ、作曲します。フラメンコのギタリストには、作曲することが必須です。人のコピーをしたくないから。他人を演じたくないから。フラメンコは、演奏の仕方で自分のパーソナリティーと性格を 発達させることを求められる。演奏や伴奏の他にも作曲することは、この職業ではとても評価されます。作曲するのは楽しいし、結構上手くやっているわ。本当を言えば、自分で作曲したものはうまく演奏できる、なぜなら自分のテクニックや演奏の仕方に合わせてあるから。他の人の曲を演奏するのも好きだけど、普通、舞台では自分の曲を演奏します。

どうやって作曲できるようになったの?楽譜を書くの?

いいえ、楽譜にはしない、それを記憶しておくの。ダンスのために作曲が必要になって、それでできるようになったの。この職業では、いろいろ求められるものがある、その1つが作曲ね。初めは、自分や音楽に対して臆病だった。作曲は天才たちがするものって思っていた。だから、自分には許さなかったの。でも、それを初めて自分に許すようになったのは、同僚たちのお陰だった。マルコ・フロレス、オルガ、マニュエル。彼らが私に曲作りを頼んだの。「ファルーカが1曲必要なんだ」って。作曲するより他に方法がなかった。ほらこうやって、学ぶのね、1つの訓練です。

どうやって、作った曲を記憶するの?

演奏して録音するのをするの。

作曲の賞を受賞したって聞いたけど?

ええ、去年、マドリッドの賞を。期待してなかった。とても励みになるし、キャリアにもとても重要です。特に自分の同業者たちが仕事を認めてくれるのは、一番素晴らしいことだわ。

フラメンコでは、どういうスタイルを演奏するのが好き?

カディス出身なので、アレグリアス、タンギーロだと、自由に感じられる。あちらのリズムね。タンギーロは北アフリカのリズム、私たちは、従兄弟でしょう、14キロ離れた従兄弟たち。カディスの海岸からは、アフリカが見える。だから、カディスには、そして私にもこのスタイルが吸収されているの。心地いいわね。

ダンサー、歌手の伴奏をするとき、舞台で彼らが君に期待していることはなんだと思う?

ギタリストは、舞台の上で、ダンサー、歌手の二人の伴奏をしなければいけない。3つを1つにするノリみたいなもの。彼らが心地よく感じるようにして、それと同時に二人を励まし、寄り添わなければならい、ギターはとても重要だから。もしギタリストがそれほどやる気がなかったら、他の二人は舞台の上で100%になれないかもしれない。落ち着いた状態で、実力を出させる。彼らを見て、聞いて、それぞれに見せ場の時を与えなければならない。二人を盛り上げ、ちょうどいい時にラスゲオをして踊り手に本領を発揮させる。なぜなら、全てが準備された舞台の上でも必ず即興の時があって、その時にそれぞれが輝くためのスパークが必要なのです。

スペインでは、フラメンコの世界の女性ギタリストはどういうふうに見られているの?

いい質問ね。

よくこの質問をされるから?

ううん、違う。女性はたくさんの好奇心とか、先入観で見られる。でもそれは、ギタリストだけとか、スペインでだけじゃない。世界中の音楽一般は、男性のものとして広がっている。ロックの女性ギタリストは、よく見かけるものじゃないでしょ、もちろん存在するけど、ありふれてはないわね。音楽の世界は、だいたいが男性の世界なのよ。フラメンコはそれがもう少し強いの。フラメンコはとても庶民的な、村の、家族の、地に根付いた音楽です。フラメンコがやってきた南スペインでは、女性の世界にはいつも障壁があります。夜の世界、音楽、祭り、夜って言ったのはフラメンコが夜の祭りに属していてそこで学ぶんだけど、それらはみんな男性たちとつながっていること。でも私の意見では、音楽に性別はない、音楽のことよ、社会じゃない。どんどん良くなってきているし、どんどん女性が演奏している。それは、自然なことだし、普通になっていく。

女性差別があった?

ええ、たくさん。例えば私の家でも、完全に男尊女卑の教育を受けました。従うように教育されてきた。面白いことにこの仕事では、指揮しなければいけないの。以前も、そして今でさえ、それは難しい。単に楽器としてギターを演奏する難しさだけじゃなく、たくさんの演奏家たちを率いて、「私についてきて、そうよ」って言うことが難しい。自分がとても幼い頃からインプットされてきた、“従う、従う”ということを振り捨てるのはとても難しかった。

君がやった革命だった?

私は革命されたわね。

フラメンコ以外では、どんな音楽的影響を受けてる?

ジャズ、クラッシックは大好き、それからロック、インドやアフリカの民族音楽も特に、あと楽器、楽器演奏者。これらは幼い頃からの影響で、私にインスピレーションを与えた。ポップは、聞いたことがなかった、音楽は感情だから、商業的な音楽は好きじゃない。 ロック、ピンク・フロイド、ダヴィッド・ボウイを聞いていた。そう、私はいつも友達たちの趣味とは、けっこう違っていたわね。

ギタリストのファンだった?

ええ、パコ・デ・ルシア、私たちの天才、私たちの巨匠。ビセンテ・アミーゴ、エル・ヴィエヒンヌ、私がとっても憧れるのは、リッケーニ、へラド、ラモン・カロ、マノロ・フランコ、グラナダ出身のカルモーナ兄弟、ぺぺ・ホアン。

歌手では?

歌手は、そうね、色々違うスタイルね、特にレメディオス・アマヤとマイテ・マアティナの両方に泣かされるわ。とても違うけど、それもそうよね、フラメンコは色とりどりだから。

もし無人島に行くなら、何を持って行く?

3つ考えがある。まずは、伴侶、でもまず伴侶がいないとね。本でいっぱいのトラック、自分のギター…難しいわね。自分のギターを持って行くと思うな。

それと弦も?

そうね、弦も。

フラメンコギターを習得したい若い人にどんなアドヴァイスをしますか?

演奏するのを楽しんで欲しいってことね。というのは、ギターでは、苦しむことも結構あるし、たくさんの感情を込めるのは難しいことだし。楽しみながら弾けば、ネガティブな気持ちは消えて行く。音楽は愛とともに生きなければならない。もし、ある日そう感じなかったら、演奏しないほうがいい。愛なしで弾くよりも、弾かないほうがいい。音符1つ1つに愛を込めるの。愛がないならば、それが戻ってくるまでほっとく。全ての喜怒哀楽をポジティヴな気持ちで、生きること。

今までで、一番の思い出、またはエピソードを話してくれる?

人生の転換点に起きたエピソードがある、27歳の時だった。難しい時期で、それほど幸せじゃなかった、うまくいってなかった。もっと現実的なものを探そうと思っていた。ヘレスのフラメンコセンターにいたとき、日本に行くオーディションがあることを知った。それに参加してみたの、バルセロナ、セビリア、マドリッドからと、とても大勢の参加者だった。自分が選ばれた時には驚いたわ。一年間、日本で演奏した、それと毎日たくさん学んだ、お金が少しあったので。「私が選ばれた」って、人生でいちばん嬉しかった。喜びで跳び上がった、本当に忘れられない大事なことだわ。本当にいいタイミングでやってきた、信じられない。

それで、日本は?

日本が大好き、また行きたいわ。素晴らしい経験だった。私の人生を変えた最も重要な時でした。それからも、たくさんのすばらしい時でいっぱいです。舞台の上で、同僚たちと感動してみんなで泣いてしまう、ドゥエンデのことを言ってるんだけど、本当に説明できないことが起こる。記憶の中に、心の中に、こんな時がいっぱい刻まれています。これは忘れられない、これがドゥエンデだと思う。

フラメンコはどう発展している?

劇的に、特にギターが。ダンスも歌ももちろん、でも、私はギタリストだから、ギターに一番注目しています。フラメンコは、たくさんの音楽、テクニックで培われています。フラメンコのギターのテクニックは、とても洗練されたもので、レベルもとても高いです。若い人たちが、フラメンコに人生をエネルギーを捧げています。若い人たちが先輩のことを聞く、肝心なことです。

プロジェクトは?

レコーディングするの、いろいろ夢想してる、今までやったことがない。いろいろ学んでる、スタジオで演奏するのは舞台でとは違う。また違う訓練ね。学び、学び。仕事の結果がどんなものか早く見たい。

ヨーロッパで公演は?

ヨーロッパやそれ以外でも。7月に台湾の台北に行きます。フラメンコは世界中に広がっている。

じゃあ、幸運とプロジェクトの成功を祈ってるよ。

どうもありがとう。

インタヴューも終わりになります。アントニア、君の経験と、情熱と現在を語ってくれてありがとう。フラメンコ万歳!

万歳!

最後に何か演奏してくれる?

ええ、よければ演奏しましょう。

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